四つの聖なる真理

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素晴らしい能力についての智慧や学びを深めていけばいくほど、スピリチュアリティは
曇りなく、澄み渡っていなければなりません。ですが、素晴らしいスキルを学んでもその
使い方がうまく機能しないこともあります。水を濁らせ、さざ波を立たせるのは、
人間のエゴの仕業です。

エゴは音(ハーモニー、波動)の調律を狂わせ、霊性の成長を困難なものにします。
人を導く仕事や、癒す仕事に関わっていくときに、どのようなマインドセットで
あるべきなのかを、バグアザンの型や瞑想を通して身体に染み込ませていきます。

「四苦八苦」という言葉の語源は仏教の根幹をなす教え「四聖諦」と「八正道」の教えからできたものです。四諦の「諦」という字は「あきらめる」と読みます。
「子供の頃からの夢を諦める」「欲しいものを諦める」など、そこには夢や希望を諦めることのように聞こえます。

しかし、別の言い方で見てみると、
「諦観」ー悟る、あきらめて超然とした態度、じっと見ること。見極めること。
「諦念」ー道理を悟って迷わない心。また,あきらめの気持ち。
「諦覚」ーあきらめてさとること。

あきらめるとは、「明らめる、明らかにする」ということ。
つまり「諦める」というのは「執着を離れ」そこから全体をよく見極め、道理を悟って迷わない状態、つまりは悟りの状態を表す漢字のようです。例えば自分の「苦」の状態を根本からよく見ることができれば、苦闘から離れることができて、超然としていられる、のように読めます。

この「執着から離れること」と「諦めること」の微妙な解釈の違いは言霊的に言っても、長い間日本人の精神構造をよくも悪くも作り上げてきているように感じます。

「あきらめる」ことが「見えなかったものをはっきりと見る」
「知らなかったことや気付かなかったことを正確に知る」ということだと知って
自分自身の内側をみると、少し違った風景が開けてくることでしょう。

さらにインドの言葉、聖典の原語にさかのぼると、諦には「真理」「真実」という意味があります。

四諦とは、

<四諦…四つの真理>

  1. 苦諦 (くたい) この世界は苦しみであるという真理 集諦の結果
  2. 集諦 (じったい) 苦しみの原因についての真理 苦諦の原因
  3. 滅諦( めったい )苦の原因を滅する真理 道諦の結果
  4. 道諦 (どうたい) 苦しみの原因を滅する方法の真理 滅諦の原因

これらは、援助職にある人たち(親も含めて)が明らかに向かい合っておくべき、人としての葛藤ポイントだといえるでしょう。
観音フライングニードルで学ぶ「波動を観ること」「熟練した与え方」や「慈悲」の根本をなす大切な教えを、古代の叡智から松尾老師がやさしく紐解いてくれます。

ー八正道ー 

仏陀は、「苦をなくす方法はある」と言明しています。まず必要なのはその「第一の道(正しく観ること・理解すること)」です。

自分が自分であるかぎり、人はだれしも「欲」をもつものです。自分が自分であるかぎり、私たちは大なり小なり「人生の苦」に直面せざるを得ません。この「苦」から逃れたい、という「欲」があるかぎり、単にさらなる「苦」を生み出すものに過ぎず、決して逃れることはできません。ここが、「本当に苦を拭い去る道」に向かうために最初に理解すべき大前提なのでしょう。しかし、しばしば多くの「求道者」たちは、この大前提でまず躓いてしまい、成長したいという「欲」、悟りを得たいという「欲」、無欲になりたいという「欲」に振り回されてもいるわけです。